2018年12月29日土曜日

江田島 海上挺身隊顕彰之記 (慰霊碑) 暁部隊 広島原子爆弾の被爆者救護の最前線部隊員

海上挺進隊戦没者慰霊碑



江田島の幸ノ浦海岸に建てられた海上挺進隊戦没者慰霊碑。1945年8月15日に幸ノ浦にいた海上挺身隊の特攻たちは、水上特攻の訓練を受けた。彼らは1945年8月6日に広島原子爆弾の投下と炸裂による未曾有の惨劇に至近距離で遭遇した。江田島の第十教育隊は上陸用船艇で広島宇品に向けて午前11時頃に出港した。当日の直後から被爆者の救援に獅子奮迅の救護した。第十教育隊の救護地域は、現在の原爆ドームがあった産業奨励館であった。8月6日深夜に爆心地から宇品港までの道路が貫通して、中継地の救護所まで当日だけで生存者の約8,000人をトラックで運搬した。爆心地周辺で救護と復興活動をした海上挺身隊は広島原子爆弾から重篤な原爆症に罹患した。


 

2018年12月17日月曜日

似島第二陸軍検疫所 (慰霊碑) 広島原子爆弾の被爆者最大救護所 Japan No War Japan Atomic Bomb





広島原子爆弾が、アメリカ軍の爆撃機から1945年8月6日15分に投下されて、広島市内で炸裂した。広島市内は壊滅したために、宇品の陸軍船舶司令部が、青年兵士で構成された江田島の暁部隊に緊急救護を要請した。暁部隊は、特殊潜航艇で至急に広島宇品港に到着するや、広島市内の爆心地や太田川水系の上流に向けて消火や救助をした。その直後の午前10時には、生存していた重度の被爆者を、広島宇品港から南3kmの似島第二検疫所に搬送した。広島市内は壊滅して、似島第二検疫所は約5,000人分の医薬品等の備蓄があった。広島原子爆弾で史上初めての被爆者のための壮絶な臨時救護野戦病院となった。似島第二検疫所にはも原子爆弾の投下直後から約20日間で治療が必要な約10,000人もの重度の被爆者が護送された。医薬品はわずか4日間で枯渇して、ほとんど重度の被爆者は原爆症で死亡した。身元不明の犠牲者の冥福を祈って「千人塚」に埋葬した。広島市内で被爆者の救護に任務した暁部隊の多く青年兵士も原爆症で死亡した。検疫所跡は保存されずに、跡碑が自然の家の一角に残存した。似島陸軍検疫所跡の碑は、臨海少年自然の家建設にあたり、第二検疫所の施設内の遺構はすべて取り壊された代わりとして建立された。





広島原子爆弾の臨時救護所に、爆心地から南方に約7kmの孤島にある似島陸軍検疫所が当てられた。似島陸軍検疫所の付近に埋葬所が設けられた。





 広島城に日清戦争の大本営が設置されてから、広島県内には多くの軍事施設が整備された。1984(明治27)年9月15日から1985(明治28)年4月27日まで、日清戦争の大本営が設置され、臨時首都となった。広島宇品港から南3km南の似島には、戦地から帰還兵士や馬の感染症と消毒のために隔離監査施設である検疫所が設置された。日清戦争では1984年に第一検疫所(現在の似島学園)、日露戦争では第二検疫所(現在の自然家)が1905年に設置された。第一次世界大戦では、第二検疫所にドイツ人やロシア人の俘虜収容所、第二次世界大戦では、第二次検疫所に馬匹検疫所が整備された。戦局の悪化して、戦場からの帰還兵は減少していた。戦後に1946年厚生省に移管され、1958年に閉鎖された。





似島陸軍検疫所跡

 この地には、明治37年(1904)似島陸軍検疫所が設けられ日露戦争より第二次世界大戦にいたる長期にわたって、帰還した兵や武器などの検疫、消毒が行われた。昭和20年(1945)原子爆弾による負傷者の臨時救護所となり、約10,000人が収容された。その後、明日を担う子供たちを育む場として、昭和57(1982)より整備を行った。
昭和61年(1986)3月 広島市